駄載

 駄載とは、馬やその他の使役獣に荷物を乗せて運ぶことです。
 少なくとも江戸時代には宿継ぎ馬として制度化されました。これは、ある宿に所属する馬・馬方が次の宿まで運び、次の宿の馬に積み替えて運ぶ、というものでした。関係者が多いため、また、公用負担を取り返したいという動機も強く手数料が嵩むこと、着いてはみたが馬の用意が出来ていない、これから連れてくる、といった場合もあり、積み替えに時間がかかることと、「荷傷み」が激しい難点がありました。「荷傷み」とは、公には、積み替える際に筵等が破れて中身がこぼれる、といったものですが、実際には、馬方がくすねる割合が相当に多かったようです。

 そこで、「通し馬」「付け通し」が考案されます。出発地から目的地まで積み替えず、人も交替せずに一気に運ぶのです。ここでも「荷傷み」はありましたが、大勢がくすねるわけではないので比較的マシだったようです。宿馬側との利害対立と荷主の要望がからまり、一様ではなかったようですが、江戸後期には、たとえば長野県諏訪地方と愛知県名古屋地方を結ぶ「中馬(ちゅうま)」のような例が表れます。

 始まりがいつかはともかく、この専業駄載は、遠野、奧会津、北九州等にも見られ、また、北海道でも行われます。駄賃付け、段付け等と呼ばれます。

 おそらくもっとも遅くまで残ったのが北海道で、戦後になっても、送電線鉄塔建築等に道産馬が活躍したそうですし、「函館だんづけ保存会」さまのような活動も見られます。

 当おはぎ企画では、何せ馬が小さいもので、合う大きさ優先で、青森と東京から1背ずつを入手しました。青森のものは後橋(しずわ、あとわ)が後傾する「小荷駄鞍」タイプ、東京のものは後輪が垂直な「荷鞍」タイプです。

 2018.6.15 訂正。

 東京から得たものは同じおむすび形でも頂点が尖った牛用と判明しました。そこで新たに群馬産の「荷鞍」を入手し、青森の「小荷駄鞍」とともに整備しました。 

 こちらが、青森の「小荷駄鞍」です。囲炉裏の煤で真っ黒でしたが、磨いたら真鍮の飾りが現れました。欠損した鋲は現代のもので補い、端板は3枚しかなかったのでとりあえず外しています。時間が出来たら真鍮板から同形に切りだして取り付けましょう。
 素材はおそらくミズナラで、漆塗りです。漆のハゲはちゃんと本漆で補修しました。ただし本来は下塗り用の瀬〆で、です。綺麗に直すには全部塗り替えないといけませんが(同じ色にはできないので)、古い塗りを残したいので、遠目に目立たない程度で良しとしました。

 真鍮の平板はかなり板厚均等ですが、鋲の頭は手作りっぽく、鋲の釘部分は円でなく四角錐、大きな鋲の真下の接合部には一部銅が見え、銅ロウ付けのようで、本職の仕事にしてはあまり上手くなく、そのへんは時代を感じます。
 居木はミズナラとまではいかず、アカマツで、まあ、適当に。
 腹帯留めは木でいきたかったのですがスペースなく金具にしました。下記土屋乗馬クラブさま所蔵の荷鞍の腹帯留めも鉄のリングだったりします。実用していた人々は懐古趣味に走ったはずがなく、使い勝手優先だったわけですね。
 こうした真鍮飾りを持つのは、いわゆる「嫁鞍」と考えてよいと思います。お嫁入りに使われた少し上等の鞍です。家紋がないのでもっと格上の「大名鞍」ではない、と思われます。この分野、研究が見当たらないので不確かなのですが。

 

 手持ちもないし暑い日だったしで、嫁入り衣装とはいかず浴衣ですが、お嫁さん役を乗せてみました。もの凄く不安定です。
 考えてみればそれも当たり前で、キ高が高く長い軽種にキ高に沿う前輪(とは普通言いませんけれども)を持つブリティッシュ鞍を付ける場合が例外的に安定するのであって、ウェスタン鞍もその元となったスペイン鞍も、こうした荷鞍も、キ高と鞍骨が離れていますから、原理的に回り止めがありません。昔、アメリカで外乗に行ったとき、何か鞍が動くので降りて確かめたら、あちらのガイドが腹帯を締め忘れていた、ということがありました。最終的にはチェックしなかった乗り手の責任ですが・・・。つまり片方のアブミだけを踏む「乗馬動作」を含め、うまいこと乗り手がバランスを取ることで回るのを予防するのも含めて総合的に回り止め効果を得る他ないわけです。ウェスタンですとわざと腹帯をゆるゆるにして、それでも鞍が回らないか競う、誇示するといったことも一部にはあったようです。
 荷鞍であれば左右均等に、かつ、鞍骨との兼ね合いはあるもののなるべく低く積む(ヤジロベエの原理)で回りにくくできます。が、上のように左右のバランス取りにくく高い位置に重心があれば回りやすくても仕方ありません。

 なお、引き手は北海道のかたがたを真似て、ヨリモドシを入れたものを作りました。ヨリモドシが壊れると放馬ですが、放馬してもどこへも行かない、ぐらいの馬でないと駄載はできませんしね。

 こちらが群馬から出た「荷鞍」です。鞍骨はケヤキで、うっすら擦り漆がかけてあるのかな、といった感じ。あちこちで見る定番タイプ。左右の鞍骨の連結の栓とその穴が円形です。ハンドドリルが普及して以降のもの、ということでしょうか。こちらも居木はアカマツで作りました。

 こちらはスペースがあったので腹帯止めは木の枝で。本来とは違いますが、前の腹帯は2回折り返してきつく締められるようにしました。ウェスタン鞍と同じ理屈です。土屋乗馬クラブさま所蔵のもとは中馬のものであったろう鞍と同様に、下部に補助横木を追加してあります。「中馬の記録」(長野県教委)や「中馬の習俗」(文化庁)(中身ほぼ同じ)の古い写真にはこの横木は見られないので、昭和10年ぐらい以降の工夫だったのでしょうか。土屋乗馬クラブさま所蔵のもとは中馬のものであったろう鞍は、鞍骨下端内側にあって、鞍が傾いた時に馬腹を丸為の遊動式の木片(前掲2書によれば「下駄」)がない、といった相違もあります。
 背当て、鞍下、しと、いろんないい方がありますが、何らかのクッションが必要です。主として麦わら(稲わらより腐りにくい弾力が保てる)かモミガラ(ネズミ避けが大変だったでしょうに)が使われたようですが、ちょっとズルをして、PVA製ハードタイプのお風呂場マットを切ったり削ったり重ねて縫ったりして成形したものをジュート布の袋で覆うことにしました。麦わらは近くになく(群馬まで行けばありますが)、腐った場合の手配が手間ですし、PVAなら水が染みることがそもそもありません。

 馬鈴(ばれい)です。

  農水省の正式名称はジャガイモでなくバレイショですが、馬鈴薯と書きます。馬鈴に似たヤマイモ、ということですね。
 この馬鈴は福島からのもの。銅製で、中の玉は真鍮でしょうか。玉もまた中空のようです。
 馬鈴の付け方はいろいろありますが、おはぎは小さいので、頭絡や頭絡から胸に張り渡した綱の中途に付けるのではなく、シンプルに首に掛けています。草を食べようとして頭を下げるとずり下がる恐れはありますが、それはその時に考えることにします。
 史料によれば、駄載に際しては、さらにいろんな種類の布類が使われていました。虫除けの腹掛けや、暖簾状に紐を垂らしたもの(アブ払いと言ったり)、雨除けや宣伝を兼ね、荷物や馬の腰を覆う布等。
 時代と場所を特定して復元しようというわけではありませんし(そもそも馬が合いません)、そした布は荷物を積んでから掛けるもので、積んだり降ろしたり忙しい場合は邪魔でもあるので、当分はペンディングです。

 土屋乗馬クラブさま所有のポニー「だいず」はおはぎと仲がよいので、二頭を縦に繋いで馬方ひとりで引く練習も重ねています。※原則としては、一人が複数の馬を引くのは放馬リスクが高く、お勧めできません。

 本来は緑色の引き手は使いません。

 中馬で使われていた荷鞍です。弁柄で赤く塗り、(宿継ぎの馬とは異なる)見た目の豪華さを競ったといいます。

 各所のロープの一部は合成繊維に置き換えられ、腹帯にはリヤカータイヤ用のゴムチューブが使われるなど、博物館的な保存ではなく、実用していた様子が伺えます。また、植物繊維製のロープは二つ編みで、いかにも手作りといった感じです。

2018.7.17追記 下駄や鳥居等、中馬の荷鞍の特徴のいくつかを欠くので、中馬の荷鞍を普段使いに転用していたもののようです。

 

 東京から得られた荷鞍です。居木(いぎ、前後を繋ぐ水平材)まで使えたので、栓だけ変えました。背当てや紐だけ整備すれば使えます。2018.6.15訂正 これが牛用でした。

 青森から得られた小荷駄鞍です。右側の後輪の「居木を差し込む穴」が斜めになっています。付いてきた居木はオリジナルではなく、細工もいいかげんだった(飾り台か何かにしていたのでしょう)ので、製作中です。

完成した様子はページの上にあります。